【INSIDE】泉柊椰「“理想のドリブラー”から逆算して、考えながら取り組み続ける」

選手の内面に迫ったロングインタビュー企画『INSIDE』。今回は、今や左サイドで絶対的な存在となった泉柊椰選手に、オフィシャルライターの戸塚啓さんがインタビュー。キャリアを振り返るうえで欠かせない転機をたどると、“考えるドリブラー”の全体像が見えてきました。

聞き手=戸塚 啓

「“理想のドリブラー”から逆算して、考えながら取り組み続ける」


フットサルで“目覚めた”少年時代

──今日は「プロサッカー選手・泉柊椰」の生い立ちをお聞きしていきます。まずはサッカーを始めたところから。
「5歳の5月からです。親に勧められて、友だち作りのために始めました」

──すぐにサッカーの魅力に引き込まれて?
「いや、それが全然(苦笑)。練習が週に1回だけで、本格的にやる感じではなくて。幼稚園とか小学校低学年だと、ボールの周りに子どもたちが集まるじゃないですか」

──お団子みたいになりますね。みんなボールを蹴りたいので。
「そのお団子に入るのがイヤで、後ろでずっと見ていました。だから、サッカーをやっていないようなもので。そのチームはドリブルを重視するチームで、ボールを持ったらパスを出さずにドリブルでいくんですけど、そしたら囲まれるじゃないですか?それがホントにイヤで、小学2年のときに辞めようかと。西川さんというコーチに、『お前だけはやめたらあかん』と言われて続けるんですけど……」

──サッカーに夢中になることはなかった?
「いつサッカーを辞めようかなあ、という感じだったんです。そんなことを考えつつ、小学3年の夏休みにフットサルを始めるんです」

──それはなぜ?
「親が厳しくて、『夏休みの宿題は7月中に終わらせなさい。そうしないと8月に遊びにいかせない』と。言われたとおりに宿題を終わらせたんですけど、遊びにいくタイプじゃなかったので家でゴロゴロしていたら、『フットサルやりや』と。夏期講習みたいな感じで近畿大学の学生さんが教えてくれたんですけど、どんどん楽しくなって」

──目覚めの時期が来ましたね。
「夏期講習を経て、フットサルチームに入りました。そっちは練習が平日に週3回で、サッカーは土曜日なので被らないので、両方やるようになって、小4からFWになりました。サッカーも面白くなって、小5で大阪府のトレセンに選ばれました」

──いきなり本領発揮ですね!
「団子に入るのがイヤで、ひとりだけセンターラインで待っていたような選手が、チームで2人しか選ばれない大阪府中河内トレセンへ行って、大阪府トレセンにも選ばれるんですからね。僕自身がびっくりですよ(笑)。それまでちゃんとサッカーをやっていなかったのに、いきなりですから」

──大阪府トレセンへ行ってみると?
「全然通用しなかったですね。サッカーに本気で取り組んで、初めての挫折、初めてぶつかった壁でした。谷晃生(FC町田ゼルビア)とか瀬古歩夢(ル・アーブル/フランス)とかがいたのは覚えています。そこからは、一度も大阪府トレセンに入っていません。小6から中3まで選考会に行きましたけど、すべて落ちました」

成長の契機となったU-16日本代表招集

──中学からは柏田SCという街クラブに所属しました。
「そこもすごく個人技を大事にするチームで、練習は常に1対1と言っていいぐらいで。いくつかのチームの練習会に参加したんですけど、参加してすぐに『ここに行きたい』と親に伝えました」

──ドリブラー・泉柊椰が、育っていった時期でしょうか。
「1対1で勝ったときの気持ち良さがすごくて(笑)。2個上の向井章人くんがすごいドリブラーで、小学校からヴィッセル神戸アカデミーまでずっと憧れて、チームを追いかけたところもありました」

──小学生、中学生年代の泉選手は、体は大きかった?それとも小さかった?
「中学生ぐらいから身長は伸びましたけど、細かったですね。小学生くらいの年代は、体の大きさで勝負が決まっちゃうところがあるじゃないですか。大阪府のトレセンはそんなイメージがありました」

──体の大きい選手にサイズでやり込められてしまうのは、すごく悔しいですよね。
「でも、いつか見返してやるぞ、という思いが芽生えたところはありました」

──なるほど。その気持ちがプロを目指す原動力にもなっていき?
「中学生までは、プロになりたいなあという感じでした。フットサルの夏期講習でコーチ役だった近畿大学の人たちが、プロに行けるかどうかみたいな話をしていたので、『プロになるのって、そんなに大変なのか』という感じで。明確に意識したのは高校1年ですね」

──ヴィッセル神戸U-18にスカウトされたことで?
「そうです。章人くんが先に行っていたので、すぐに決めました。プロを意識したということについては、高1の夏にU-16日本代表に呼ばれたのが大きかったです。ユースのAチームで初めて出て得点した試合を、監督の森山佳郎さんが観にきてくれていて」

──2016年7月のオマーン遠征に招集される、と。9月のAFC U-16選手権へ向けた最終選考の意味合いを持つ遠征でした。
「初めて呼ばれたら、中村敬斗とか久保建英がいて。海外へ行くことも含めていろいろなことが初めてで、U-16オマーン代表とかと練習試合をしたんですけど、何もできなかった記憶があります」

──いきなり海外遠征に招集されるのは、難しいシチュエーションだったのでは?国内でのトレーニングキャンプなどからチームに入っていけば、また違ったのかもしれません。
「そう、かもしれませんが……チーム内のみんなが明らかに自分よりすごい、という感覚でした。まあでも、あの遠征をきっかけに成長できたところはありました」

──U-16日本代表にはFWで招集されていますが、ポジションはサイドだったのでしょうか?
「中学では左サイドをやっていて、高1でAチームに入ったらフィジカルとスピードがまだまだということで、中央で使われて。フィジカル的にある程度やれるようになってきたら、また左へ戻りました。でも、当時はドリブラーではなかったです」

──えっ、そうなんですか?
「ドリブルはしたいけど、スピードとかフィジカルがまだまだ十分ではないので抜けない。なので、相手をいなしながら時間を作ったり、スルーパスを出したりとか。そういうプレーのほうが得意でした」

「あのドリブラーとの出会い」と「同期の言葉」

──U-18からトップ昇格はかなわず、でした。
「U-18からトップに上がれるかどうかは、高3の5月とか6月ごろに判断されます。僕自身はサイドハーフでグッと伸びたのが、高3の夏だったんですね。なので、トップ昇格がないと分かった時点で、大学選びへシフトしました。いくつかの大学のセレクションを受けましたが、なかなか決まらなかった。びわこ成蹊スポーツ大学に決まったのは、卒業式が終わったあとでした」

──大学では左サイドで?
「そうですね。プレースタイルとしても、高校3年の10月からドリブルに特化していきました。筑波大学の練習に参加したときに、三笘薫選手(ブライトン/イングランド)のプレーを観て、『自分もこういう選手になりたい』と思ったんです。三笘選手と山川哲史選手(ヴィッセル神戸)と1対1をやらせてもらったんですけど、すごいなって。それで、三笘選手の天皇杯の映像を観たりしました」

──三笘選手が在籍する筑波大が、ベガルタ仙台を破った2017年6月の天皇杯の試合ですか?
「そうです。三笘選手が2点取った試合です。あとは当時流行っていたドリブルデザイナーの映像を観たりもしていました」


──海外の選手のプレーも参考に?
「そこはずっと、ネイマールでした」

──ネイマールの何が、泉選手をそこまで惹きつけたのでしょう?
「ドリブルには形がありますけど、ネイマールは何をするか分からない。それで相手をはがす。ボールを持ったらワクワクしますよね。ヴィッセルのU-18にいた当時は、トップチームがバルサ化を進めていたタイミングで、アンドレス(・イニエスタ)が来ましたし、ユースにもスペイン人の指導者がいました。そういうのもあって、バルサの映像を観る機会が多かったんです。で、高3の秋から、ハッキリとドリブルに目覚めていきました。あとは、ユースの同期に言われた言葉も大きかったですね」

──どんなことを言われたのですか?
「バックパスが多い。面白くない。仕掛けてナンボやろ、と。三笘選手との出会いとその言葉は、僕の転機になりました」

“考えるスタイル”になった大学時代

──大学では1年時から試合に出ています。
「それはすごく大きかったですね。それと、大学ではサッカーにすべてをシフトしたかったので、スポーツ大学という環境は自分が求めていたものでした」

──身体的な変化は?
「まだ細かったですね」

──その現実をどう受け止めていましたか?
「めっちゃコンプレックスはありましたよ。小学校のトレセンから始まって、ずっと体が細いという理由で落とされたりしてきましたから。大学ではなんとか改善したくて、パーソナルトレーナーもつけました」

──泉選手の一日に密着したクラブ公式のYouTubeでは、大学から自炊をしていたと話していました。体を大きくするために、食事にも気をつけていたのでは?
「食事の量や回数を増やしたりとか、いろいろな工夫はしていました。でも、大学生なので限られたお金でやり繰りをしなきゃいけないし、授業と練習が終わった夜に自炊をするのは大変です。時短で栄養がとれるものを、ということは考えていました」


──こうして少し話を聞いただけでも、濃密な4年間だったことがうかがえます。
「考える力がつきました。筋トレをするにしても言われたことをただやるのではなく、この筋肉をこう使うことで効果があるということを、授業で学びながらやっていましたので」

──論理的に理解していったんですね。
「そうです。そっちのほうが自分に合っている、ということが分かりました。あれこれ考えなくもできてしまうタイプじゃないんです」

──そして、プロへの道が開けた。
「大学2年から3年になるタイミングで、ヴィッセルのキャンプに参加させてもらいました。その年の10月に獲りたいと言われて。愛着もありましたので、迷うことなく決めました」

──ヴィッセルの内定選手として迎えた大学4年時は、どういう過ごし方をしていたのでしょう?
「めっちゃ難しかったですね……周りの見る目が変わっているのが分かって、マークが厳しくなって。関西リーグ1部で1年は4得点、2年は5得点、3年は10得点取っているんですけど、4年は全然ダメでした」

──5得点、ですね。
「自分の基準もプロになるので、大学生だったらここまでで良かったところをもう一つ上のレベルでできるようにするとか、いろいろと考えながらやっていて、それでも結果が残せなくて」

──それは……苦しい1年でしたね。
「結果が残せない自分は、周りからすれば『プロ入りが決まって調子に乗っているからだ』と見えたかもしれない。実際は、まったくそんなことはなくて。毎週のJリーグを観て、『ここで試合に出るためには、何をすればいいのか』と、ずっと考えていました」

足りないものが見えたプロ1年目

──プロ1年目は、J1初優勝を飾るチームで開幕からメンバー入りしました。
「左サイドは汰木康也選手とパトリッキ選手がいて、右サイドが武藤嘉紀選手一人だったので、右のサブという感じでした。ピッチに立つと、後ろに酒井高徳選手、真ん中に山口蛍選手、トップに大迫勇也選手がいる。ものすごくレベルの高い要求が飛んでくるので、ホントに大変でしたけど、めっちゃ面白かったです」

──選手として成長できる環境なのでしょうね。
「キャンプからものすごく濃い時間で、自分の中でサッカーの概念が変わっていきました。自分は左サイドで勝負したくて、第5節のサガン鳥栖戦で左で使われて点を取ったんですけど、自分だけが明らかにインテンシティが低い、レベルが低いというゲームでした。50分過ぎぐらいに交代したんですけど、足がつりかけていたんです。J1のトップレベルのインテンシティで戦うには、まだまだ足りないと痛感しました」


──高いレベルで競争できるすばらしい環境だけれど、自分に足りないものも明らかに見えている。おそらくはものすごい葛藤がある中で、8月にJ2のモンテディオ山形への育成型期限付き移籍を決意したのでしょうか。
「めっちゃ難しい決断でした……ただ、ゲーム体力は試合でしかつかないのもわかったので、J1のトップレベルの強度へ自分を持っていくには、まず試合に出なければという気持ちでした。あとはやっぱり、左で勝負したかった。右で評価されることもあったんですけど、自分的には納得できていないというか」

──周りの評価と自分の評価が、かみ合っていないと。
「そうです。右でやっているときは、ドリブルで仕掛けるよりも背後を取ってクロスを上げるプレーが多く、それが評価されていたのだと思います。でも、それって自分じゃないな、と。で、山形から話があったので、行こうと」

──山形ではJ2リーグ戦7試合に途中出場し、無得点に終わりました。
「監督のナベさん(渡邉晋)はすごく気にかけてくれたし、ウイングを置く僕の好きなサッカーでした。途中出場で使ってもらったんですが、そこでもインテンシティの低さ、ゲーム勘のなさが出た。あとは、ゴール前のクオリティが明らかに低い。チャンスは作れるけれどゴールに結びつかない。評価を落としていって、終盤は出られなくなりました」

──論理的な思考の持ち主だからかもしれないですが、自分に足りないところをそこまで客観視できるのは……簡単ではないと思います。
「足りないものがわかっていないと、改善できないので。自分なりの基準があって、ほかの人にいいと言われても自分ではそうは思わないこともあります。その逆もあります。周りからの声で、気持ちが落ちるとか上がるというのは、あまりないですね」

“大宮の地で、ネクストレベルのドリブラーへ

──そして、2024年は大宮アルディージャで。
「プロ1年目の経験があったからいろいろな基準があるし、自分はどうなりたいという物差しができました。ヴィッセルと山形でもがいた1年目がなかったら、去年も活躍できてないでしょう。今もこうやって、上がり続けるみたいな足取りは無理やったと思います。波があることも、壁があることも分かっているので、それで落ち込むこともなく、どうしたらうまくなれるか、どうやったら良くなるかと、ずっと考えながらやっています」

──今は大宮の勝利に貢献することを意識しながら、海外へ行って活躍するという目標からの逆算で考えている?
「そうですね。でも、ウイングに求められるプレーも変わってきています。今までは自主トレでドリブルワークとかボールワークをやっていましたけど、背後を取ってクロスを上げたりといったランニングでチャンスを作るプレーが増えてきているので、海外基準に即してスプリントのトレーニングを入れたり、フィジカル面を意識していますね」

──体の厚みが確実に増しています。
「それだったらうれしいです(笑)。高校生ぐらいまでは、中盤でクリエイティブなプレーをする選手が一番良いと思っていたんですけど、いまはもう必ずしもそうじゃない。ウイングとしてどう勝負していくかという理想像を追いかけながら、何が足りないのかを逆算で考えています」

──J2リーグの対戦相手は、どのチームも泉選手を警戒してくる。仕掛けるチャンスがなかなかない。それでも、どう勝負していくのかを考えているのでしょうね。
「仕掛けないとダメだし、仕掛けが一辺倒になってもダメですよね。試合ごとにチームとしてのプランとか、課せられるタスクはありますけれど、映像を観れば観るほど、どのプレーを抑えればいいか分からないような選手になりたいですね。縦にも内側に来るし、アーリークロスを上げてくるし、背後も取ってくる、と」

──どれをつぶせばいいんだと、相手を悩ませるような。
「そうですね、相手が困るような選手になりたい。いろいろと試行錯誤をしていますけど、とにかくチームの結果が先なんで。自分はフィニッシャーの役割もあって、チャンスは多いと思うんです。そこで決め切れていない。アシストも含めた最後のクオリティを、もっと突き詰めないと」

──泉選手がここから数字を伸ばすことで、チームは勝利に近づくと思います。
「数字には自分もこだわっています。チームのためにも取らないと、という気持ちは強いです」


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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