【Jリーグ通算300試合出場達成記念コラム】敬愛する小島幹敏へ。オフィシャルライターからの祝言

今回は、11月9日の水戸ホーリーホック戦でJリーグ通算300試合出場を達成した小島幹敏選手の記念コラムをお届け。クラブを長年追ってきた3人のオフィシャルライターに、それぞれの視点で小島選手の凄みや思い出などを綴ってもらいました。


レジェンドの系譜に連なる「特別な存在」
文・戸塚 啓

このチームのボランチは「特別な存在」との印象がある。ほかのポジションの選手を軽んじるつもりは断じてなく、ボランチにはクラブにとってかけがえのない存在が多い、という意味である。

NTT関東として戦っていた当時から在籍し、現役引退まで社員選手としてプレーした斉藤雅人は、ずっと着用した背番号15とともにファン・サポーターに記憶されている。実働は12年を数えた。

2002年にアカデミー出身初のプロ契約選手となった金澤慎も、中盤の守備的なポジションで試合出場を重ねた。在籍16年でJ1、J2で合計311試合出場は、クラブ歴代最多である。

斉藤から15番を引き継いだ大山啓輔は、小学生年代からアカデミーで育ち、トップチームまで登り詰めた。実に17年にわたってオレンジのユニフォームをまとい、育成年代の後輩たちに夢と希望を与える存在となった。


【大宮のボランチのレジェンドである斉藤(左)、金澤(右上)、大山】

小島幹敏は、彼らの系譜を受け継ぐ。J1通算300試合出場を達成した彼も、アカデミー出身のボランチだ。

3人の先輩と違うのは、プレースタイルだろうか。斉藤と金澤は、守備的MFの性格が強かった。大山は彼らに比べるとゲームメーカーに近く、リスタートのキッカーとしても機能した。

小島はさらに攻撃的なタイプだ。ドリブルで前へ運んでいく力は、3人をハッキリと上回る。そのプレーは、意外性やアイディアも感じさせる。発想が多彩な左利きということも、3人との違いにつながっているのかもしれない。

「俊輝くん(石川俊輝)とかミカさん(三門雄大)みたいに、どちらかと言えば守備に強みがある選手とダブルボランチを組むことが多かったので、自分が前へ出ることが多かったのかもしれませんね」とは本人の弁である。

そうかと言って、小島がディフェンスに物足りなさを感じさせることはない。必要な局面で、彼はしっかりと必要な場所にいる。

「あの二人と組みながら、守備の勉強じゃないけれど、見て学ぶ、組んで学ぶ、という感じでした」とも言う。キャリアを重ねていくことで、ディフェンスにおけるたくましさが増している印象がある。

11年目を迎えるプロキャリアで、大きなケガをほぼしていない。水戸へ期限付き移籍した2017年に、骨折で全治3カ月の診断を受けたのが、唯一と言っていい長期離脱である。

斉藤と大山が背負った背番号15は、同じアカデミー育ちの中山昂大に譲っている。「背番号にはこだわらない」というのも、いつでも自然体な小島らしい。

大宮におけるリーグ戦最多出場の上位には、金澤や斉藤をはじめとする功労者たちが並ぶ。その中で、小島だけがJ1での出場がない。彼にとってもクラブにとっても、そのままでいいはずがない。

J1でプレーする小島を観たいと思うのは、僕だけではないだろう。彼自身も強い思いを抱いている。「チームのJ1昇格に貢献する」という一心で、プレーしていると言っても差し支えない。

このチームのボランチを、さらに「特別な存在」へと押し上げるために。進化を続ける小島から、眼を離さないでいたい。


不変で飄々、そして左利き。そのすべてに心を奪われて
文・粕川 哲男

左利きの上手な選手に惹かれてしまう。中学生のときにディエゴ・マラドーナに衝撃を受けてから、ずっとそうだ。小島幹敏のプレーにも、すぐに心を奪われた。プロ入りから2年間、公式戦で見る機会はほぼなかったが、ボールを持ったときの伸びた背筋と、左足による美しい軌道のパスが、練習から光っていた。

初めてゆっくり話を聞けたのは、水戸への2年間の武者修行から帰ってきた2019年だ。

当時から今日まで、会話中のテンションは変わらない。口調はおだやか、言葉に誇張や自慢は一切なく、味わい深い言い回しで楽しませてくれる。

2019シーズンの第13節・レノファ山口FC戦、大宮での初得点について聞いたときの答えは、こうだ。

「試合の前日かな、イーニョ(奥井諒)に『点取ったら美味しいお寿司屋さんに連れてってやる』って言われてたから、頑張れた。誰かがまたご飯に連れてってあげると言ってくれたら、モチベーションが高まるかもしれない。高めの、ちょっといいご飯(笑)」

相手を翻ろうするプレースタイルと同じで、想像もつかない答えが返ってくる。だから、面白い。


【2019年のJ2第13節、山口戦で大宮初ゴールを決めた直後の一枚】

これも6年前、欧州移籍の野望がないかたずねたら、軽くいなされた。

「海外はないですよ。もし移籍するなら、日本の大きな街がいいかな。福岡、大阪、名古屋、仙台……とかの大都市。ご飯が美味しそうだし、楽しそう。そういう基準で移籍するのってアリですかね?」

そんな選手は知らない。たぶん、勝利のために全力を尽くすのは当たり前で、それと別次元の価値基準を持っている。もちろん、まだ結婚していない23歳のころの話だ。そして昨年、レッドブル体制となることで可能性が広がった欧州移籍への意欲を確認すると、「俺はないですよ」と少しもブレていなかった。

プレーに関する感想を伝えても、褒められるのが苦手なのか、いつもはぐらかされる。宮沢悠生監督の初陣、先発に復帰してフル出場で勝利に貢献した第31節・ジュビロ磐田戦後は「前の選手が躍動してくれたので。俺は特に何もしてない」と言い、最近強さを感じるヘディングでの競り合いについては「中盤には背の高い選手があまりいないから」と分析。第35節・ブラウブリッツ秋田戦で決めた巧みなゴールに関しては「3-0だったんで気楽に打てました。でも、ネンイチ(年1回)なんで終わっちゃいました」と言い、ニヤリとしていた。

勝っても浮かれず、負けても沈まない。闘志と負けず嫌いは胸の奥に隠して、どんなときも淡々飄々とチームのために走り続ける。そんな小島に、どうしても惹かれてしまう。


衝撃の光景から12年。マサト、J1へ行こう
文・平野 貴也

2013年、ユース(現U18)の西脇徹也監督(当時)を取材するため、志木グラウンドへ足を運んだ。練習を見て、一人の選手に目を奪われた。相手からプレッシャーを受けない役目でのプレーかと思ったが、そうではなかった。ドリブルをする中で、ボールを受ける角度とパスを出す角度が常に確保され、守備側はボールを奪うきっかけさえつかめない。流れるようなパスワークの経由点となり、いとも簡単に進路へボールを運んだ。思わず「あれ、誰ですか」と聞いた。西脇監督は「マサトね。見た人、みんながいいって言いますよ」と教えてくれた。ただ、名簿を見ても「マサト」は見当たらず、聞き間違えたかと思った。後日、ふたたび練習場を訪れたときも、やはり練習を見るだけで「あの選手だ」と分かった。そして、小島の名前「幹敏」は「マサト」と読むと知った。

しかし、プロになってからは、もどかしさを感じた。まだ「運べる」だけの選手で、現代MFに求められる得点力もボール奪取力も物足りなかった。育成指導は、難しい。ほかにはない特長を磨いたことに間違いはなかったはずだが、一つのスタイルだけで長く活躍するのは難しいものだ。小島が「ユースのときに、もっとミドルシュートを練習すればよかった」と話したことがある。いつも飄々としているためにわかりにくいが、課題を感じ取り、苦労してきたことがうかがえた。

水戸に移籍した2017年以降、大きなケガをせず、着実に試合に出場。少しずつボールを奪えるようになり、ゴールも奪えるようになった。人知れず磨かれた努力の結晶だ。運ぶドリブルとパスを見るたびに、初めて見たときの光景を思い出す。ボールを奪えば「これをできるマサトを見たかったんだ」と言いたくなり、好機が訪れれば「マサト、打て!」と叫びたくなる。プロの舞台で多くの期待をかけられる選手に成長したことに感動を覚える。

2023年5月、Jリーグ通算200試合出場達成のインタビューで、小島は「プロで10年以上、かつ30歳以上でプレーして、300試合以上出場できたら、めっちゃうれしい。300試合は、J1で先発で出たいですね。お世話になったクラブをJ1に上げて、そこで自分が試合に出ることが理想」と話した。プロキャリア10年、300試合出場は達成した。来年、小島は30歳になる。マサト、J1へ行こう。日本の最高峰で多くの期待を実現してほしい。そして、今度は、J1の取材者たちに私が教えよう。

「みんな言いますよ、良い選手だって。幹敏。マサトと読むんですよ」


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

粕川 哲男(かすかわ てつお)
1995年に週刊サッカーダイジェスト編集部でアルバイトを始め、2002年まで日本代表などを担当。2002年秋にフリーランスとなり、スポーツ中心のライター兼エディターをしつつ書籍の構成なども務める。2005年から大宮アルディージャのオフィシャルライター。

平野 貴也(ひらの たかや)
大学卒業後、スポーツナビで編集者として勤務した後、2008年よりフリーで活動。育成年代のサッカーを中心に、さまざまな競技の取材を精力的に行う。大宮アルディージャのオフィシャルライターは、2009年より務めている。

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