【引退記念インタビュー前編】濱田水輝「人生で大事なことは、すべてサッカーをとおして教わりました」

今回は、12月14日に現役引退を発表した濱田水輝選手のロングインタビューをお届け。つねに思案と決断に満ちていた“濱田らしい”足跡を、オフィシャルライターの戸塚啓さんが、本人の実直な言葉を下に綴ります。前編の今回は、「大宮での2年間」と「これからの話」がテーマ。大宮の仲間への想い、そしてサッカーへの想いに迫ります。


負傷に苦しみながらも“姿勢”を崩さなかったこの1年

この男の足跡は、実はとても力強い。

濱田水輝はスパイクを置くその日まで、自分にしか作り出せない足跡をピッチに残していった。現役最後のシーズンとなった2025年も、彼はRB大宮アルディージャの一員として魂の限りを尽くした。

その2025シーズンは、開幕スタメンに名を連ねた。52分に左CKから先制のヘディングシュートを叩き込み、2-1の勝利に貢献した。その後もゲームに絡んでいったが、4月20日のFC今治戦で左膝蓋骨を骨折してしまう。


【2025シーズンの開幕戦・山形戦の得点後のシーン。レッドブル体制第1号のゴールはこの背番号26だった】

「4月の時点では、夏ごろに復帰できると考えていました。(市原)吏音がU-20W杯に出るだろうから、9月は彼抜きで戦うことが想定されていました。そのタイミングでは絶対に出られるように、8月ぐらいからチームに合流してコンディションを上げて、と自分の中で計算をしていました」

ところが、8月10日の練習で肉離れをしてしまう。6週間の離脱となった。ここから先は、塗炭の苦しみを味わう。

9月末に復帰を試みた。筋肉系のトラブルに見舞われた。またも数週間の離脱となった。

「計算をしたのが、もしかしたら良くなかったのかもしれないですね。そうやって目標を置いちゃうと、どうしてもそこに合わせたくなってしまうので。体の症状とかを見ながら、ここで出たいと思いながら、小さい目標と大きな目標を立てながらやっていましたが」

11月初旬に、またしてもケガをした。「今シーズン中の復帰は、もう難しい」と悟った。

「この時点で、すでに7カ月ぐらい離脱していました。しかも、けっこう大きめのケガだったので、プレーオフ決勝が12月の2週目だとしても、試合で貢献するコンディションには戻せないな、と。僕は2019年に大きな捻挫をして、そのあとに筋肉系のトラブルを連発したことがありました。今回も骨折のあとに肉離れをしたので、2019年よりいろいろなところに気を配って、トレーナーの力も借りながらやっていったのですが、自分の体がついてこられなかった、という感じでした」

公式戦でプレーしたい、ピッチ上でチームに貢献したいとの願いは、もはやかなわない。それでも、濱田はできる限りチームの練習に加わった。

「フル合流はできなくても部分合流して、プレーでも、姿勢でも、言葉でも、少しでもチームに良い影響を与えたいと思っていました。その気持ちだけで、しがみついていた感じです」

徹さんともう一度。これまでで一番の覚悟を胸に大宮へ

2024年に加入してから、体の芯を貫いてきた思いがある。「少し失礼な表現があるかもしれませんが」と断ってから、濱田は心の内側を明かした。

「外から見る大宮は、すごくもったいない印象でした。このメンバー、このスタジアム、この環境、このサポーターがいるのに、なぜこの順位なの?なぜJ3に落ちちゃうの?という。試合を観ていても、もっとできるでしょう、というのはすごくあったんです。ちょっとスイッチを入れるだけで、このチームは絶対に変わる。潜在能力は間違いなくある、と思っていました」

くしくも、ファジアーノ岡山で師事した長澤徹監督が、2024年から大宮を率いることになった。指揮官が求めるに違いないことと、大宮に足りないと感じることは、かなりの部分で重なり合っている。自身と同じように岡山で長澤監督のサッカーを体感した下口稚葉らと、「練習からひたすらにやって、周りにも要求する」という作業を繰り返していった。

「僕はもう大した選手じゃないし、僕も稚葉も決してうまい選手ではない。でも、誰よりも声を出すとか、体を張るとか、気持ちをプレーに込めるといったところで存在価値を出すんだ、と思っていました。オレらがやるしかないぞ、というメチャクチャ強い思いでこのチームにやってきました。このチームにはそういう選手がいなかったし、それができるようになればJ3にいるはずはない、というのは分かっていたので」

長澤監督が鋭くも情熱的な視線を注ぎ、濱田や下口、同じく新加入の杉本健勇らが高いスタンダードを示した。既存の選手が呼応し、チーム全体が底上げされていった。

「周りの選手たちが感じ取ってくれたことに、ホントに感謝ですね。(浦上)仁騎とかも一緒に広めてくれたので。まあ、僕らがいなくても、徹さんならうまくマネジメントしたと思いますが。2024年はJ3ということもあったと思いますが、早いタイミングで軌道に乗った印象です。チームは勝ちながら成長していって、会社も変わっていくところが感じられて。J3降格はすごく残念なことだったのでしょうが、クラブにとって転換点になったのではないでしょうか」

ほかでもない濱田自身も、2024年は期するものを抱えて挑んでいた。

「2023年に岡山との契約が満了になったときは、現役を引退するつもりでした。娘が小学校へ入学するタイミングだったので、生まれ育った埼玉へ戻ろうと。そんなときに、徹さんが大宮の監督になると報道で知って。サッカーを本当にやり切ったかと問われたら、やめたいわけではなかったというのも正直なところで、代理人さんに『もう一回徹さんと仕事ができたらうれしいです。どうにかなりませんか』と相談したんです」

2023年の濱田は、J2リーグで3試合しか出場していなかった。その自分を、長澤監督はチームに迎えてくれた。

濱田の胸に、かつてない覚悟が宿った。

「徹さんとまた一緒にできる喜びがありましたし、その責任も感じていました。岡山でほとんど試合に出ていなかった自分にオファーをするのは、かなり勇気のいることというか、クラブとしてもかなりの決断です。『そんな選手が戦力になるの?』という疑いの目を必ず向けられるだろうから、その中でやらなきゃいけないという責任はありました。これまでで一番の覚悟を持って大宮に来て、それをしっかり示せたと思っています」

西大宮や秋葉の森の練習グラウンドで、NACK5スタジアム大宮などのピッチで、若いチームメートに伝えたかったことは「まだまだある」と言う。「でも、十分に伝わったと思います。若い選手も十分に感じ取ってくれました。同じCBの吏音なら、この2年ですごい成長しているのを真横で見てきました。ライバルですし、負けるもんかという思いはあるんですが、この年齢になると若い選手に少しでもいい影響を与えられたら、それはすごくうれしいことなんです。だから、一緒にプレーした選手には、これからも頑張ってほしいんです」

ここ数年は「今年が最後」との思いを抱いてきた。大宮との契約が満了になると、「ここで終わるのが幸せかな」との思いが、ゆっくりと立ち上がっていった。

「今年はホントに最後になるかもしれないという思いでやっていて、開幕からコンディションも良かったので、このままいきたいなというのはあったんですけどね。もう一回ピッチに立ちたかった気持ちはありますけれど、この年齢になると新しいチームを探すのも簡単ではありません。この先の人生を考えても、ここで引退するのがいいのだろうと。心残りはありません。すっきりとした、やり切ったという思いです」

サッカーに恩返しがしたい

12月14日にクラブ公式サイトで引退が発表されると、たくさんのメッセージが届いた。自身が想像していたものよりも、はるかに多くのメッセージが。

「こんなにもたくさんの方に応援されていたのだと、あらためて感じています。ホントに幸せなことだと思います」

8歳の娘と4歳の息子は、父親の引退を知って涙をこぼした。ピュアな悲しみに触れて胸が押しつぶされそうになり、同時に愛おしさを感じた。妻を含めた4人の家族は、深い絆で結ばれている。

「8歳の娘にとっては、プロサッカー選手の僕は自慢のパパだったみたいなんですね。引退の意味も理解できているので、寂しかったのだろうなと。4歳の息子はサッカーが大好きで、彼にとってもアルディージャの選手の自分は自慢のパパなんです。だからやっぱり、サッカーを続けてほしい気持ちがあったと思いますが、息子に『続けるなら離れて暮らすことになるかもしれないよ』と伝えると、『それなら、サッカーやめていいよ、今すぐやめていいよ』みたいな答えで。自分にとって家族は一番大きな存在で、一緒にいることが最優先です。そうやって泣いて悲しんでくれたのは、僕にとってはうれしいことというか、プロサッカー選手としての自分が子どもたちの記憶に残っているんじゃないかと思うので、そこまで現役を続けられたのは良かったと思います」

今後については、まだ決まっていない。17年にも及んだキャリアを、閉じたばかりなのだ。ゆっくり、じっくり考えて、決めてもいい。

「サッカーには携わっていきたいです。引退発表のニュースリリースのコメントにも記しましたが、僕はサッカーに育ててもらいました。人生で大事なことは、すべてサッカーをとおして教わりました。だから、サッカーに恩返しがしたい。次の世代の子どもたちに、サッカーをとおしていろいろなことを経験してもらいたい。サッカーをとおして人生を豊かにしてもらいたい、という気持ちがあります。現役選手ではなくなりますが、引き続きサッカー界の発展やサッカーの普及に努めたいと思っています」

サッカー界のセカンドキャリアには、いくつかの選択肢がある。指導者を目指すか、クラブのフロントとして腕をふるうか。代理人やメディアも、選択肢に入ってくるかもしれない。

「指導者よりもクラブで働くことに、挑戦したい気持ちがあります。選手を支えてくれるフロントスタッフや、クラブの経営にも興味があります」

いつもとは違う12月を過ごし、やがて、いつもとは違う新年を迎える。

「(12月下旬の)今のところは、過ごし方は変わっていないです。ついこの前もクラブハウスへ行って走りました。年が明けてチームが始動するころになったら、練習場へ行かない自分に寂しさを感じたり、キャリアが終わったんだなと実感したりするのかもしれないですね」

J1、J2、J3で通算228試合出場は、17年のキャリアでは決して多くない。ただ、数字だけでは読み取れないところで、濱田は戦ってきた。運命や宿命に立ち向かい、サッカーへの情熱を燃やし続けたのである。

※中編に続く。


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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