【Jリーグ通算300試合出場達成記念コラム】可能性を広げ続けた日々。“プレーで示すマルチロール”、茂木力也の物語

今回は、6月21日のサガン鳥栖戦でJリーグ通算300試合出場を達成した茂木力也選手のキャリアを振り返るコラムをお届け。多くの試合に出場し、選手として成長を遂げたシーズンにフォーカスし、当時取材していた3人の記者(愛媛FC:松本隆志記者、モンテディオ山形:佐藤円記者、RB大宮アルディージャ:戸塚啓記者)に、ピッチ内外から足跡をたどってもらいました。

可能性を広げ続けた日々。“プレーで示すマルチロール”、茂木力也の物語


場数を踏み、体格のハンデをはねのけた第一次愛媛時代

浦和レッズのトップチームでピッチに立てなかったルーキーイヤーを終え、プロ2年目のスタートは愛媛の地となった。それは言うまでもなく経験値を積み重ねるための武者修行の場。しかし、その表情に不安は感じられず、いきいきとした初々しさが印象的だった。

「J3では(Jリーグ・アンダー22選抜で)試合に出ていたけど、J2以上ではまだ試合に出たことがない。だから試合に出たいという気持ちは一番高いと思っています」

口調は穏やかでも主張は明確。チーム最年少の19歳はプレー面でもプレシーズンからフレッシュさを前面に出して好アピールに成功すると、木山隆之監督の信頼を勝ち得るまでにそう時間はかからなかった。

愛媛FCはこの前年にJ2リーグ5位に躍進してJ1昇格プレーオフに進出するなど充実のシーズンを送っており、主力の多くが残留。経験値の乏しい選手がそこへ食い込むのは容易なことではなかったが、茂木はすぐさま競争の舞台に乗ってライバルと切磋琢磨を繰り広げていた。

このときの主戦場は3バックの中央。守備の要というよりは、展開力や機動力を生かして攻撃にも積極的に加わるリベロという立場だ。このポジションでは前年の主力で中堅選手の西岡大輝が存在感を見せており、茂木は開幕2戦こそ西岡の後塵を拝すも、第3節・北海道コンサドーレ札幌戦で初めてスタメンの座をつかむと、その後も激しいポジション争いをしながらコンスタントに経験値を積み重ねた。

屈強な相手FWとの対峙では、時として片腕でねじ伏せられるなどフィジカル負けする場面も見られたが、場数を踏むとともに予測や間合いで体格面のハンデを補えるようになると、プレーも安定。物怖じすることなく声を張り上げて守備陣を統率する姿も様になっていった。

結果、このシーズンは30試合の先発出場を含む、計33試合のリーグ戦に出場。Jリーガーとしてタフに成長していく上での礎はこの1年にあったと言っても過言ではないだろう。

ピッチ内外で“万能型”と化した山形での1年半

2017年、愛媛で指揮を執っていた木山監督が青野慎也コーチを伴い、モンテディオ山形の新監督に就任した。同じタイミングで茂木も、元の籍を浦和に置いたまま愛媛から山形へ移籍する。当時20歳。茂木のほか、のちに木山山形の中核となるGK児玉剛、FW阪野豊史、FW瀬沼優司も同時に愛媛から山形に移っている。

山形に在籍した1年半の間、リーグ戦の出場は2017年に34試合、2018年にはやや減らして8試合。その間、後ろのポジションをほぼ網羅した。3バックではCBの左・中央・右、4バックでは両SBはもちろん、175cmながらCBでも先発。中盤では[4-3-3]のアンカーも務めた。両足でボールを扱う技術が高く、攻守に運動量を発揮し、クレバーさも持ち合わせている。マルチロールのスタイルは若くしてすでに完成された感があった。その完成形を少しずつ大きくしていくことが、彼にとっての成長だった。

「奪われたあとの切り替えとか、奪ったあとの切り替えとか、そういうところは本当に、木山さんのサッカーを(愛媛時代含めて)2年半やって一番身についたところだと思います」

ピッチでの活躍と、人懐こい笑顔。チームとサポーターの距離が近い山形では、サポーターの人気も高かった。年齢が若いこともあり、自分の息子や弟のようにかわいがられることが多かったが、チーム内で自分と同年代や年下の選手といるときにはリーダーの一面も発揮。そうした面でもマルチロールだった。

2018年7月、かねてから温めていた一つの目標がかなう。古巣・浦和から復帰のオファーが届いたのだ。

「浦和以外だったらどこからオファーが来ても行く気はなかったです。(プロ)1年目に浦和でやって、そこへ戻るために愛媛、山形とやってきたので、自分自身、オファーをもらったときはうれしかったです」

そうした思いを以前から知っていた木山監督も、「レッズもいま大変な状況かもしれないけど、そういうタイミングで、たくさんレンタルに出している選手の中から彼に声がかかるというのは、やっぱり彼の努力だと思うし、積んできた成果だと思う」と快く送り出した。

助っ人として帰還した第二次愛媛時代

二度目の愛媛でのプレーは2016年のときとは大きく状況が異なっていた。武者修行の意味合いが大きかった前回に対し、2019年夏に期限付き移籍で加わったときはチームが立て直しを図る上での即戦力の“助っ人”役。かつての初々しかった若者はJ通算100試合出場が近づくほどの経験を積み重ね、周囲の期待どおり、すぐさまチームの主力として活躍した。

当時の愛媛は川井健太監督の下、ポゼッションサッカーを志向していたが、後方からのビルドアップにやや問題を抱えていた。そんな中、茂木は加入直後の第25節、V・ファーレン長崎戦で3バックの右のスタメンに抜擢されると、最終ラインからのボール回しを安定させるとともに、「自分が入って、サイドチェンジのところはすごく意識していた。チーム全体として幅が使えるようになったから縦にパスも入るようになった」と、チームの持ち前の攻撃的なスタイルを引き出して4発快勝。その勢いで3連勝を収めるなど、頼りになる助っ人ぶりをすぐさま見せつけた。

2020年からは完全移籍に移行。前年に続いて3バックの右を主に任せられながら、ウイングバックとして出場すれば、豊富な運動量を武器にサイドから攻撃の起点になり、チームが4バックに形を変えれば、左右のSBどちらでもプレーするなど、高いユーティリティ性を発揮。イレギュラーな形で複数のポジションをこなしながら、いずれのポジションでも本職と遜色のないクオリティを見せた点も特筆すべきところだった。

試合を振り返るにあたっての茂木の言葉には常に客観性があり、複雑な視点が生まれる試合やチームが大きな課題を残す試合などでは、よく茂木にコメントを求めたものだ。それによって記事に整合性を持たせることができ、取材者としても彼の存在はとてもありがたかった。

茂木は2020年、2021年とシーズンを通じてチームの主力としてプレーし続け、2年連続でチームの最多出場時間選手となった。チームが思うような戦績を残せない中、攻守で孤軍奮闘したが、愛媛は2021年を無念の20位でフィニッシュ。計3シーズン半に渡って過ごし、慣れ親しんだ地を後にすることとなった。

“憧れ”を見据えて、これからも大宮で歩み続ける

6月21日に行なわれたJ2第20節・サガン鳥栖戦で、茂木がJリーグ通算300試合出場を達成した。2015年から11シーズンにわたって、J1で1試合、J2で258試合、J3で41試合を、積み重ねてきた。

大宮には2022年に加入した。前年の右SBのレギュラーだった馬渡和彰が移籍し、左右両サイドに対応できる翁長聖もチームを離れたことで、即戦力の獲得が急務だった。

果たして、茂木は横浜FCとの開幕戦で1得点1アシストの鮮烈なデビューを飾る。鮮やかなヘディングシュートと、正確なアシストだった。このシーズンは右SBで22試合、左SBで3試合に先発した。


【2022年の開幕戦(横浜FC戦)、矢島慎也(右)へのアシストは見事だった】

翌2023年は41試合に出場した。左SBのレギュラー格だった小野雅史の移籍などにより、左サイドのポジションでフル稼働した。左右両サイドに対応し、中盤でもプレーできるポリバレントな資質は、チームに欠かせないものだった。

しかし、チームはJ3に降格してしまう。チーム最長のプレータイムを記録した茂木は、結果に対する責任を強く感じたに違いない。そのうえで、自分に矢印を向けていった。得意とする右サイドだけでなく、左サイドでのさらなる貢献を自らに課した。何かを語るよりもハードワークすることを選ぶのが、茂木という選手なのである。

節目の300試合は、後半アディショナルタイムに訪れた。急きょ交代で出場することになったが、短い時間の中で持ち味を出し切ることに努めた。節目の試合は彼らしいものだった、と言える。

大宮加入とともに背負う背番号22は、プロキャリアをスタートさせた浦和でのキャリアに由来する。尊敬する阿部勇樹さんが着けていた番号なのだ。

「阿部さんは左右両足で蹴ることができて、長身ではないけれどヘディングが強かった。どこのポジションでもレベル高くプレーできていました。自分にはズバ抜けた強みはないので、すべての能力を高いレベルにしないと生き残っていけない。阿部さんをずっと目標にしてきたからこそ、いまの自分があります」

300試合出場にあたっても、阿部さんに触れた。

「阿部さんはずっとJ1で、500試合以上に出ている。僕はJ2での出場が多いですけど、それぐらいの数字を目指してこれからも頑張ります」

これまでのキャリアで、印象に残る試合をあげてもらう。クラブにとってメモリアルな一戦をチョイスした。

「2023年のJ3で優勝を決めた(J3第33節)今治戦は、すごく覚えています。タイトルを獲れたこと、その試合のピッチに立てたことがうれしかった。引退したあとも、思い出すんじゃないかなと思いますね」

5月にケガで離脱したが、6月からメンバー入りしている。「優勝を目指すチームに、どんどんかかわっていきたい」と、すでに300試合のその先を見据えている。



松本 隆志(まつもと たかし)
出版社への勤務を経てフリーランスに転身。フリーの編集者をする傍ら、2010年からはサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の記者としても活動。愛媛県を活動拠点とし、愛媛FCおよびFC今治の番記者を務める。

佐藤 円(さとう まどか)
1995年からモンテディオ山形の前身、NEC山形サッカー部の取材を開始し、以降同チームを取材。現在はモンテディオ山形オフィシャルライター、サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』記者として執筆している。

戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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