今回は、12月14日に現役引退を発表した濱田水輝選手のロングインタビューをお届け。つねに思案と決断に満ちていた“濱田らしい”足跡を、オフィシャルライターの戸塚啓さんが、本人の実直な言葉を下に綴ります。中編の今回は、浦和、新潟、福岡時代(2009年~2017年)の歩みがテーマ。自身のサッカー観の中軸が形成されたこの期間、それぞれの地で手にしたもの、感じたこととは――。

“浦和ユース黄金世代”の一員として
濱田水輝がプロサッカー選手を現実的な目標としたのは、浦和レッズユースに在籍していた高校1年生時だった。小学5年から中学3年までアメリカでサッカーに打ち込み、U-15アメリカ代表に選ばれていた少年は、アルディージャとレッズのユースのセレクションに合格し、「ジュニアユース年代で結果を残した選手がユースに上がってくるので、よりレベルが高いだろう」との理由で赤いユニフォームを選んだのだった。
「高1から3年生に交じって試合に出させてもらって、サテライトリーグでプロの選手と一緒に試合をすることができました。そこで物差しを持つことができて、自分なりに調子が良いときはやれている感覚もあったので、もしかしたらプロになれるかもしれない、と初めて思ったのが高校1年でした。U-16日本代表に呼ばれたりもしたので」
浦和レッズユースの同期には、ともにトップチームに昇格する山田直輝(現・FC岐阜)、高橋峻希(現・品川CC横浜)、永田拓也、大学経由でプロ入りする阪野豊史らがいた。一、二学年下にもトップへ昇格する原口元気(現・ベールスホット/ベルギー)、岡本拓也(現・大分トリニータ)らがいた。

【2009シーズンの浦和。左から山田、永田、原口】
「同期のレベルの高さには、ホントに驚きました。アメリカにも個人能力の高い選手はいるんです。ドリブルがうまいとか、走るのが速いとかいう選手はいますが、日本の選手は小さいコートのツータッチとかでプレーする際の判断のスピードが速い。頭が止まらないスピード感は衝撃でした。とくに山田直輝は、とんでもない天才という印象でした。一瞬のひらめきで局面をすべて変えるし、確かな技術で絶対にボールを奪われないので」
高校1年にして「プロになれるかも」との手ごたえをつかんだ一方で、「チームメートに引き上げられている」との感覚があった。この年代にして自分を客観視できるスタンスは、家族との関わりによって育まれている。
「ウチの両親は幼少期から満足させてくれなかったというか、なかなか褒めてもらえない。そういう中で、つねに謙虚でいる姿勢を教えられた気がします」
そして、高校卒業と同時に国内屈指のビッグクラブの一員となる。1年目はリーグ戦出場が1試合、2年目と3年目は4試合だった。
「プロ1年目から3年目までは、自分をあまり出せなかった。どのポジションにも代表クラスの選手がいて、周りに気を遣ってしまったり、必要以上に自信がなかったり。埼玉スタジアムのあの雰囲気に、ちょっとビビってしまったりも。あらためて振り返ると、ちょっともったいなかったなと思います。下手でもいいんだから、もっと自分を表現できたら良かったんですが……」
プロ4年目の2012シーズンは、開幕スタメンに名を連ねた。就任1年目のミハイロ・ペトロヴィッチ監督の下で、阿部勇樹、槙野智章と3バックを形成した。この試合が0-1の敗戦に終わると、ペトロヴィッチは翌節から3バックの顔ぶれを変える。濱田はサブとなり、シーズン最終盤の第33節まで先発で起用されることはなかった。
「2節は僕に代わって坪井(慶介)さんが出て、チームは1-0で勝利しました。そこから坪井さんはずっとスタメンでした。当時も一生懸命にやっていたつもりでしたけど、振り返ると全然甘かったな、と。ワンプレーの重み、1失点の重み、1試合の重みを、めちゃくちゃ痛感しました」
“順番待ち”をしていたことに気づいた2013年、新潟時代
このままでは、いけない。
何かを、変えなければいけない。
プロ5年目となる2013年シーズン、濱田はアルビレックス新潟へ期限付き移籍する。浦和からは「ここで引き続き成長しよう」と言われたが、慣れ親しんだ環境を飛び出した。
「実戦の経験が積みたくて移籍したのですが、リーグ戦は6試合しか出られなかった。シンプルに競争に負けました。想像していたような1年ではなかったけれど、強度の高い練習で体が鍛えられました」
柳下正明監督が指揮する新潟は、攻守にハードワークする、相手より多く走る、球際で負けない、といったサッカーの原理原則を大切にしていた。指揮官は決して妥協を許さず、選手たちはひたむきに練習に取り組んでいた。タフに戦える選手がそろっていた。
「ここまでやるのかっていうぐらいに、練習はめちゃくちゃ厳しかったです。でも、誰一人として文句を言わずにやっていた。練習へ向かうまでの準備とかも含めて、これがプロなんだというものを目の当たりにしました」

新潟で必死にもがきながら、濱田は浦和での4年間に思いを馳せた。
自分の甘さに、気づかされた。
「それまでの僕は、順番待ちしていたんだ、と。自分は若いから出られないのであって、このまま浦和で練習していれば自然とうまくなって、そのうちに出られるだろう、という甘い考えの下でやっていました。試合に出られないのは代表クラスの選手がいるからだ、と思っていました。それと、僕はロンドン五輪を目指すチームに招集されていたんですが、そこではスタメンで出ていたんです。鈴木大輔(現・ジェフユナイテッド千葉)とCBのコンビを組んでいた。僕以外の選手は自チームで出ている中で、僕だけが出ていなくても選ばれていたので、勘違いしたというか。ほかのチームなら出られる、出られる力があると思っていたんです。ところが、新潟でも出られない。これはもう自分が変わらないとまずい、という危機感を抱きました。このまま順番待ちをしていたら一生順番は来ないで終わる、と」
新潟には1年間の期限付き移籍で所属している。2014シーズンは浦和に復帰するのが既定路線だったが、濱田の心は揺れる。
新潟でも試合に出られなかった自分が、果たして浦和で出られるのか。
きっと難しいだろう。ただ、このまま期限付き移籍を続けていたら、浦和に戻るタイミングを逸するに違いないことも理解していた。
「うまくいかないかもしれないけど、絶対にトライしたい。勝負したい。チャレンジしたい。その一心で復帰しました」
2014年、浦和復帰。変化と現実の間で
浦和にレンタルバックすると、チームメートから「変わったな」と声をかけられた。何人ものチームメートが、濱田のポジティブな変化を指摘してきた。
「新潟ではほぼ試合に出られなかったし、プレーの変化はおそらく伝わりにくかったと思うんです。でも、自分にとってはとても大きな1年でした。だから、変わったと言ってもらえることはうれしかったですし、そこで火がついた感じがしました」
新潟でフィジカル的に鍛えられたこともあり、2014シーズンはキャンプから手ごたえを感じていた。開幕戦こそメンバー外だったが、サガン鳥栖との第2節でスタメンに抜擢される。

【2014年のJ1第2節・鳥栖戦の先発メンバー】
「その試合で、自分が失点に絡んで負けてしまったんです」
濱田はそう話すが、個人的なミスが失点を招いたわけではない。濱田が形成する右サイドからのクロスが、失点につながったというのが客観的な事実である。ただ、DFとして失点の重みを知る彼からすれば、「自分が絡んで」と言いたくなるのかもしれない。
「0-1で負けてしまって、自分の序列も変わってしまいました。このときもまだ、ここぞという試合で結果を出すことのできない自分だったんです」
2014シーズンはリーグ戦5試合の出場にとどまった。「ただ、充実感はありました」と濱田は話す。
「当時は3人交代なので、DFが途中出場するのは難しかった。その中で、クローザーで何試合か使ってもらいました」
チームからは翌2015シーズンも戦力として考えている、と伝えられた。しかし、濱田はもう一度環境を変えるとの決断を下す。J2のアビスパ福岡へ完全移籍するのである。
2015年、福岡へ。レジェンドの下での飛躍
「新潟でお世話になったスカウトの鈴木健仁さんが、2015年から福岡のチーム統括部長になりました。新潟のコーチだった三浦文丈さんも、2015年から福岡のコーチになりました。たぶんお二人が、クラブ側に自分のことを良く話してくれたんじゃないかなと思うんですが、人のつながりって大切だなと思う瞬間でした」
指揮官には井原正巳が就くことが決まっていた。1990年代の日本はもちろんアジアを代表するCBだった監督との出会いは、ポジションが同じ濱田にとってはかけがえのないものになると考えることができた。
「井原さんが監督になるということで、もう福岡しかないという感じで移籍を決めました。J1からJ2へカテゴリーが落ちることは、気になりませんでしたね」

背番号2を着けた濱田は、第4節のロアッソ熊本戦で決勝ヘッドを叩き込む。開幕3連敗のチームはこの日の勝利をきっかけに、11戦負けなしで上位へ食い込んでいく。濱田はスタメン出場を続けていたが、夏に腰痛に見舞われてしまう。
ここで彼を救ったのが、埼玉から一緒についてきてくれた妻だった。
「2014年に埼玉で出会って、福岡についてきてくれました。プロサッカー選手がどういう職業なのか知らなかったはずですけれど、支えるって決めてくれたので、すごく助けられましたね。この年(2015年)の11月に入籍をしました」
シーズン終盤に戦列へ復帰した濱田は、J1昇格プレーオフを勝ち抜くことに貢献した。リーグ戦26試合出場で4ゴールは、いずれもキャリアハイである。完全移籍という選択が正しかったことを、結果で示すことができた。

再び立ちはだかるJ1の壁。そして、運命の出会い
翌2016シーズンはリーグ戦19試合に出場した。全34試合の半分強である。チームはJ1の壁にぶち当たり、1年でJ2へ降格することとなった。
「『よしっ、もう一回J1だ』との思いで挑みましたが、J1のレベルは高かったですね。チームも負けが込んで、どんどん自信を失っていくという悪循環に陥って。自分もなかなかいいプレーができなくて、試合に出たり出なかったりで。その中でも成長は感じてはいたのですが、J1で戦うには自分のレベルが足りなかった。2015年に大きくなった自信が、2016年にボコボコにされたというか、またダメかっていう思いでした」
CBの濱田は、対戦相手の得点源と数多くマッチアップする。そして、J1チームの最前線には、日本代表や外国人ストライカーが居並ぶ。
「J1とJ2では、外国人ストライカーの質は大きく違います。自分の全キャリアを振り返って、J2では目の前の相手にやられないっていうのはそれなりにできていました。けれど、J1では自分より大きい選手、速い選手を抑えることが難しかった。外国人ストライカーが相手でも1対1のバトルで勝たないと、CBとしての価値は示せない。2016年の時点では駆け引きとかもまだ備わっていなかったので、そのままぶつかって負けてしまう、という……」
再びJ2で戦うことになった2017シーズンは、ガンバ大阪からCB岩下敬輔がやってきた。前年のJ1でプロデビューを飾っていた冨安健洋と岩下が、最終ライン中央でコンビを組んだ。濱田は控えのCBとなる。
7月末からはベンチ外が続くが、10月末の東京ヴェルディ戦で15試合ぶりにメンバー入りする。さらにケガの岩下に代わって、後半開始からピッチに立った。試合はスコアレスドローで終わるものの、福岡にとっては9試合ぶりの無失点だった。
「勝つことはできなかったんですけど、失点ゼロで抑えることができた。ここで悪い試合をしてしまうと、周りの印象はかなり悪くなってしまいますが、久しぶりに使われた試合でちゃんと仕事ができたことで、こいつはまだ大丈夫だと思ってもらえたのかな、と」
果たして、福岡との契約は2017シーズンで満了となるものの、同じJ2のファジアーノ岡山からオファーが届くのである。岡山の長澤徹監督に会うと、開口一番こう言われた。今でも忘れられない言葉をもらった。
「濱田水輝という選手の価値を、必ず上げてみせる」
胸に熱いものがこみあげる。
この監督の下でプレーしたい、と思った。

※後編に続く。
戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。


