今回は、12月14日に現役引退を発表した濱田水輝選手のロングインタビューをお届け。つねに思案と決断に満ちていた“濱田らしい”足跡を、オフィシャルライターの戸塚啓さんが、本人の実直な言葉を下に綴ります。最後となる後編は、岡山時代(2018年~2023年)の歩みがテーマ。そして最後には、自身を支え続けてくれた方へのメッセージもお送りします。

2018年、岡山へ。忠誠心と野心が混在する中で
プロ10年目となる2018シーズン、濱田はJ2のファジアーノ岡山の一員となった。長澤徹監督の熱心な誘いに、心を動かされた。
「岡山は2016年にJ1昇格プレーオフに出場したんですが、2017年は13位で終わっていました。最後に守れる人材、高さのあるCBを必要としていると言われて、真っ先にオファーをしてくれました。本当に熱量を持って誘ってくれたので、ここでお世話になって恩返しがしたいと思いました」
岡山への忠誠心が芽生えていくのと同時に、プロフェッショナルとしてのまっすぐな野心もあった。
「2018年の開幕時点で27歳だったので、もう一回J1で戦いたい気持ちはありました。チームの昇格をもちろん目指すけれど、個人昇格してやろうという気持ちもありました」
2018シーズンの開幕から4節までは、控えメンバーだった。チャンスが巡ってきたのは第5節である。高卒ルーキーでスタメン出場していたCB阿部海大が、U-19日本代表の海外遠征でチームを離れた。背番号4を着ける濱田が、スタメンで新天地デビューを飾る。
「京都とのアウェイゲームで、僕がヘディングシュートを決めて1-0で勝ったんです。そこで結果を出したことで、そこからスタメンで出場できるようになりました。ここもやっぱり、しっかり準備をしてきてよかったな、と思える瞬間でした。試合に出られていなくても、やるべきことを続けていれば結果を出せるんだ、と」

一度は定位置をつかんだ濱田だが、リーグ戦全42試合のうち23試合の出場でこのシーズンを終えている。ケガに見舞われたからだった。
「僕も含めてケガ人が多く、チームがなかなか波に乗り切れませんでした。むしろ下位に沈んでしまって。僕自身も契約満了からの移籍1年目だったこともあり、ここで終わってたまるかみたいな気持ちを強く持っていて、チームをどうやって立て直すのかまで頭がまわっていなかった。自分のプレーをどう改善して、それをどう勝点につなげるか、を考えるのが精いっぱいで。チームの全体像は、まだ見ることができていなかったです」
チームは15位に沈み、長澤監督は岡山を離れた。
「徹さんの退任は、自分にとってもすごく悔しかったし、すごく残念で。もっと一緒にやりたかったので、最後に会ったときに『またどこかで一緒に仕事ができることを楽しみにしています』と伝えたのを、すごく覚えています」

【2018年の一枚。左は戸田光洋コーチ】
未曾有の事態で自身を見つめ直した2020年
翌2019シーズンはケガに悩まされた。開幕からピッチに立つことができず、6月に初めて出場したが、その後も離脱と復帰を繰り返した。リーグ戦16試合の出場にとどまり、チームは9位でシーズンを終えた。
「ケガに苦しんだこのシーズンを経て、個人昇格はあきらめるというか脇に置いて、このクラブと一緒にJ1へ行きたいと強く思うようになりました」
岡山のためにとの思いをより一層胸に刻んで、濱田は2020シーズンを迎えた。チームは17位で終えたものの、キャリアハイとなるリーグ戦40試合出場を記録する。ピッチ上で充実感を得ることができたものの、心には靄がかかっていた。
新型コロナウイルスのパンデミックに、世界が襲われたからだった。Jリーグは開幕直後に中断を強いられ、リモートマッチと呼ばれた無観客試合で再開された。のちに上限を5,000人までとする有観客試合へ移行するものの、声を出しての応援は規制された。
「あの2020年は誰もが、いつも何かと戦っているようでした。個人的にはいろいろと考えさせられました。そもそも、サッカーをやっていいのか、サッカーはこの社会に必要なのか。今この瞬間に、サッカーより大切なものはいっぱいある、とか。とはいえ、ファジアーノは岡山という街に絶対に必要で、僕たちがプレーすることで多くの人たちを勇気づけたりできる。いろいろなことを感じながら、プレーしたことを覚えています」
自分はなんのために、サッカーをするのか。サッカーを取り上げられたら、自分には何が残るのだろう。サッカーをとおして、どうやって社会に貢献するのか──コロナ禍という未曽有の事態をとおして、濱田はプロサッカー選手としての自分を見つめ直していった。

2023年、思索の果てに一度抱いた“決意”
2021シーズンは、リーグ戦29試合に出場した。キャプテンとしてチームをまとめた。有馬賢二監督から木山隆之監督へ指揮権が移った2022年は、ヨルディ・バイスと柳育崇がやってきた。どちらも屈強で空中戦に強いCBである。濱田のリーグ戦出場は、12試合にとどまった。
「タイプが似たような選手が来たことで、なかなか試合に出られなくなるのですが、そういう選手がいるから自分が成長できる、という側面もあります。どのチームでも競争はありましたし、その中で残っていく術は自然と備わったというか。一人の選手としてはもちろん、チームのことを意識して行動するとか、自分なりの勝ち筋みたいなのがあったのだと思います」
2023年もバイスと柳がCBの序列を引っ張り、3バックでは鈴木喜丈や本山遥が最終ラインに入った。濱田に与えられたプレータイムは、わずか15分だった。2023年を最後に、契約満了で退団することとなった。
当時は明かさなかった事実がある。しばし黙考してから、濱田は口を開いた。
「実はクラブに残る選択肢がありました。精神的柱というか、チームをまとめることを期待していると言ってもらったのですが、自分は選手として戦力になれないなら居続けたくなかった。あくまでも一人の選手として、チーム内で競争して試合に出たい。それは一番大事にしてきたことで、それがなくなったらダメだと思ったので、岡山を離れよう、サッカーをやめようと決めました。引退後に何をするのかは決まっていないまま退団して、埼玉へ帰ることにしたんです」
早く就職活動へ動きたい気持ちから、引退を公表したいと周囲に相談した。代理人からは「あわてないほうがいい」と進言され、妻も同様の考えだった。
かつての恩師の下、消えかけていた火が灯る
空白の時間が過ぎていく中で、長澤監督が大宮の監督に就任する。フットボーラーとしての炎がまだ消えていないことを、濱田はその瞬間に自覚した。
「2018年に抱いたもう一度徹さんと仕事がしたい、という気持ちはずっと変わりませんでした。話が進んで大宮の強化部の方と会ったときは、給料0円でもいいからやらせてほしい、と言うつもりでした。もちろん、きちんとした契約を提示していただきました。自分を育ててくれた両親、友人、今まで応援してくれた人たちに、少しでも多くプレーしているところを見てもらって、やり切って終わろうという気持ちで2024年のシーズンに臨みました」
J3からJ2への復帰を至上命令とする2024シーズンの開幕節に、濱田は名を連ねた。開幕から10試合のうち7試合にスタメン出場し、チームを勢いづけた。
「開幕スタメンはもちろん狙っていましたけど、本当に出ることができて。途中からポジションを失って、多くの時間をベンチで過ごしましたが、2024年はすごくいいシーズンでしたね」

濱田水輝から、最後に
17年のキャリアで在籍した5つのチームに対しては、「申し訳なさが強いんです」と話す。誠実で実直な濱田らしい。
「どのチームに対しても、もっとできた、もっと貢献したかった、という気持ちがあります。そういう意味で申し訳なさが強いのですが、そんな自分を応援してくれてありがとうございます、とお伝えしたいです。自分のような選手がここまで長くできたことが、自分でも不思議です。どのチームでも監督以下スタッフ、チームメート、ファン・サポーターに恵まれて、成長させてもらいました」
目を見張るような技術の持ち主ではなかった。自身も「うまい選手じゃないです」と繰り返す。
それでも、濱田水輝はどのチームにも必要な選手だった。チームを勇気づけ、励まし、支えることのできる存在だった。
「そう言ってもらえるのは、本当にうれしいです。ただ、こうやって自分が今に至るのも、多くの先輩を見てきて、指導者に影響を受けて、ファン・サポーターに支えられたからです。本当に周りの人に恵まれて、ここまで来たので。自分にかかわってくださったすべての方に感謝です。それから、妻と二人の子どもに、最後にもう一度感謝を伝えたいです」
自分の弱さを認めて、悔しさを心に刻んで、決して強がらず、驕ることもなく、明日を見失いそうになってもくじけない。ひたむきに、謙虚に、真摯に、サッカーと向き合った。チームメートの助けになりたいと、いつでも願った。
サッカー選手としての生きがいを、現役生活最後の日まで磨き続けた。
彼と同じ時間を過ごすことのできたすべての人が、きっと、「ありがとう」の思いを抱いているに違いない。

戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。


